南京町商店街振興組合

朝鮮動乱による特需は物資が豊富になり、それを求めて人が溢れていた。南京町に行けばハイカラ品から中華食材、肉、魚貝などなんでも揃った。中華料理店も7~8軒と店を構え、戦前の面影をとりもどしていっていた。 「ハロー!シューシャイン!」 アメリカ兵をみると寄ってゆく靴磨きの子ども達。軍服のポケットからキャンディを撒いてその場をしのぐ米兵。ワッと地べたに群がる子ども達。戦争孤児にとっても生きる糧がある町だった。 一方、通りのあちこちに、米兵相手の外人バーが出来始めた。磯上の米兵キャンプ地、通称かまぼこ兵舎からくる兵隊達と、神戸港に着くアメリカ軍艦から、しばしの休憩をとって下船する兵隊の歓楽街になっていったのである。夜、酔った米兵達が大きいプラスチックのゴミバケツの蓋を、フリスビーにして悪ふざけをはじめても、体格のよいアメリカの大男たちを誰も止めることは出来なかった。 外人バーの壁には、安っぽいペンキ絵に、どぎつい英語の看板。路地裏では、とばくに売春。連夜の喧嘩や暴力沙汰。堅気の人が寄りつけない町になっていった。店をたたむ処が出てきた。 昭和40年代に入って、とうとう 「民生」 だけになった。それから8年間、南京町の中華料理店は 「民生」 一軒だけの状態が続いた。中華食材の店もわずかになって南京町の名前とはかけ離れた様だった。